あめみやしろぐ

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『ヲタクに恋は難しい』は「ラ・ラ・ランド」なのか?

ヲタクに恋は難しい』(以下『ヲタ恋』)を観てきた。

wotakoi-movie.com

 

本作を論ずるならば、3つの軸を導入する必要があるだろう。一つに「オタクを主題とした物語」としての軸、一つに「ミュージカル映画」としての軸、最後に純粋な「映画としての作劇」を評価する軸だ。

 

 

「オタクを主題とした物語」としての軸


「オタクを主題とした物語」として観た場合、つまりは「オタクがオタクの眼差しでもってオタクを描いた物語をみた」場合、岡田斗司夫の『オタク学入門』に記述されたオタクの定義というものももはや古典化してしまった現在、「オタク」というものがカジュアル化した昨今においては十分に許容できるのではないだろうか。別に「馬鹿にされている」と言った感情を受けることもない。高畑充希の演技は非常に深く取材されている感を受けるし、「2000年代のオタクを表現する記号」を散りばめているとは言える。*1
エンディングテーマの「残酷な天使のテーゼ(めいたもの)」も、スタッフロールで作詞作曲を確認すればこれは公式パロディである、と好意的に解釈できなくはない。『残酷な天使のテーゼ』それ自体が「オタク」を表象する記号として消費され尽くされている感が拭えなくもないが。

 

ミュージカル映画としての軸


続いて「ミュージカル映画」としての軸を持って観た場合。
はっきり言ってしまえば本作はミュージカル映画として制作する必然性が全くなかったのでは?という疑問を投げかけざるを得ない。「恋愛不適合な愛すべきヲタクたちの悲哀と歓喜の協奏曲(ラ・ラ・ランド)」というコピーを持ってくるならば、さらに言えばポスターデザインにおいてラ・ラ・ランドを引用するならば、ミュージカル映画としての文脈を踏まえてほしかった。
ミュージカル映画は登場人物たちが唐突に歌い踊るものではない。そこには地の演技からの連続性があり必然性がある。登場人物たちの心情の高まりの表現が歌と踊り仮託されている、といってもいい。例えばここでは『ラ・ラ・ランド』の冒頭における渋滞して立錐の余地もないジャンクションからの主題に至るリニアな連なりを参照しよう。このオープニングシーン、これから始まる物語の「祝祭感」めいた感覚があるしなにより「渋滞にはまっている車のカーラジオから流れるナンバーが劇伴となる」というリニア感がある。*2


Another Day of Sun - La La Land Opening Scene


本作において、ミュージカルシーンは唐突に外挿される異物感のようなものばかりが目立つのだ。登場人物たちの感情の高まりを描くでもなく、物語としての起伏を描くでもなく、ただ「ミュージカル」という表面的な体をなすためだけに導入されたかのような。*3
更に言ってしまうと、本作冒頭におけるビッグサイトや渋谷でのミュージカルシーン等、どうにも「制作予算の少なさ」が見え隠れしてしまう。これは今現在の邦画としての力量の限界なのかもしれない。それでもやはり、どうにも「画が寂しい」。ビッグサイトのシーンであれば、麓の階段あたりまでエキストラで埋め尽くされていれば映像としても見応えがあると思うのだが。*4

 

 

「映画としての作劇」という軸


最後に純粋な作劇としての軸でみた場合。

正直にいってしまえばあまりに物語が平板すぎる。恋愛を描く物語としてのアップダウンが”なさすぎる”のだ。
再度『ラ・ラ・ランド』を参照しよう。あの物語の主題は突き詰めてしまえば「あり得たであろう過去の選択肢に対する追憶の眼差し」であり、「喪失」なのだ。出会いと別れが描かれ、終局においてあり得た可能性に想いを巡らせつつ、ロブとミアは<これから>を生きていく、という物語なのだ。
では『ヲタ恋』はどうであるのか?公式サイトのストーリ紹介から引用しよう。「時に恋愛とは我慢、妥協、歩み寄りが必要なもの。”恋愛不適合”な二人には数々の困難や試練が待ち受けていた」


本作において、果たして「数々の困難や試練」があったと言ってよいのだろうか?物語を駆動するような力がそこに描かれていたか?確かに宏嵩と成海の間には微妙なすれ違いが描かれた。*5そもそも付き合い始めている時点で”恋愛不適合”といえるのか?”恋愛不適合”というコピーに引っ張られるあまり、ここに「オタク」なんて言葉が修飾されるから余計に、観ている側は戸惑い続けるのだ。意味ありげに登場する職場の先輩も上司も二人の行く末に大きく関わることはないから尚更に。
平板に物語は進んでいく。ディスコミュニケーションはあるようだがそれを成海達が気に病む様子もない。そうこうするうちに到来する終盤においての二人の和解(といっていいのか?)も心に響かない。


実写版『ヲタ恋』は、はっきり言ってしまえば作劇がよろしくないと言わざると得ない。ここまで書いて原作を読み返してみたのだが、原作1巻をそのまま脚本化しても、2時間という上映時間の中で感情の機微描くための緩急をつけることはできたのではないか。「オタクを主題にした映画」、「ミュージカル」という点を除いても尚、作劇部分に対して残念な感情を抱いてしまうのだ。

*1:逆説的に、「現代(いま)」のオタクというものを顕す記号を投入しているからこそ、この映画はおそらくあっという間に消費されてしまい、後には「2000年代のオタク文化風俗」の一旦を示す映像資料としてしか残りえないのではないか、という危惧すら抱いてしまう。

*2:別の例で『マンマ・ミーア!』における”Dancing Queen”が歌われるシークエンスを参照しよう。娘の結婚式を祝う為、島に駆けつけたハイティーン時代の旧友と再会した母の感情の高まり――自身の「娘時代」を喚起する感情の高まりから”Dancing Queen”が流れるあのシーン、私は結構好きだ。

*3:不思議とこの異物感は後半にはやや和らぐのだが

*4:ビッグサイトのシーンや池袋路上では明らかにエキストラではない通行人が映り込んでいる箇所が散見される。また渋谷のシーンでは画角がほとんど移動しないなど撮影の際に相当な制約があったであろうことが伺えてしまう。こういうのはなんとなく物悲しい

*5:なんであれば、このすれ違いに「オタクのサイロ化」とでも言うような時代のトレンドを見出してもいい